************************************************************************************************ 「カラヤンの棒の振り方とカラヤンのブルックナー演奏史」 80年代のカラヤンの指揮は肉体的条件が悪化したために、少なくとも70年代中頃までの比較的緻 密な指揮ぶりとは異なり、特にブルックナーにおいては要所要所のみに集中していた感があります。 ベルリンフィルハーモニー(以下BPOと略します)というオケは、指揮棒の乱れにも反応しやすく、 最晩年のカラヤンに見受けられたある種の「乱れ」に対しても反応してしまったように感じました。 その点、ウィーンフィルハーモニー(以下VPOと略します)は、そういう種類の「乱れ」からは比較 的影響を受けにくく、結果としてはどこかでどなたかが書いていましたが、ブルックナーに関しては カラヤンの指揮のもと、「草書の一筆書きの豪快さ」(かなり的確な表現だと思いました)を感じさ せてくれたように思います。 皮肉といってはなんですが、私がVPOでカラヤンのブルックナーを聴いたのは、70年代後半のザル ツブルクででしたが(9番、8番)、その時はまだカラヤンの指示もわりと明確であり、いわゆる 「楷書の演奏」を目指していたように感じました。ところが肝心のVPOはけっこうアンサンブルが 乱れがちでしたね。ですから、結構大雑把なブルックナーという印象でした。そしてまだ70年代の VPOとのブルックナーの演奏では、「草書の一筆書き」の豪快さは感じなかったように思いました。 あの時代だったらBPOとの演奏のほうがいいように思います。BPOとのブルックナーで私が印象に 残っているのは、渋谷のNHKホールが完成したときにBPOと来日して演奏した7番でした。あれは本 当に力強さと流麗さの両方がバランスのとれた素晴らしい演奏で、私の会場で本当に堪能できました。 おそらくカラヤンのブルックナーの「楷書的演奏」の最後は、確か80年だったか(ひょっとして 79年だったかな?)の当時の西ベルリンでのBPOとの5番だったと思います。縦の線、横の線がよく 整理されており、印象に残る力強い演奏だった記憶があります。 ブルックナー以外では必ずしも上記のようなことだったわけではなく、BPOとの80年代の演奏にも いいものがありますが、しかしことブルックナーに関しては前述のようなことが言えると思いますよ。 私は、ブルックナーという作曲家は、ドイツ的な重厚性、あるいはプロテスタント的主知性が本質で はなく、あくまでも横の線(旋律線)が重要であり、かつカトリック的非主知性が本質だと思ってい ますので、カラヤンの最晩年のVPOとの演奏を高く評価したい気持ちが強いです。 ************************************************************************************************ 註:70年代後半のザルツブルク(9番、8番)のVPO *9番は1976.7.25.VPO、ザルツブルク音楽祭 *8番は1978.8.15.VPO、ザルツブルク音楽祭(聖母マリアの被昇天祭) 註:渋谷のNHKホールが完成したときにBPOと来日して演奏した7番 *1973.10.26.BPO、来日公演(NHKホール) 註:確か80年だったか(ひょっとして79年だったかな?)の当時の西ベルリンでのBPOとの5番 *1980.11.22.または1980.11.23.BPO、フィルハーモニーにおける演奏会 これは2002.7.26.当サイトのゲストブックにla_vera_storiaさんから頂いた投稿です。「指揮者(こ の場合はカラヤン)の棒の振り方と彼のブルックナー演奏史に関して一言書かせてください。」に始まり、 カラヤンのブルックナー演奏に関する貴重なご意見を実演経験を入れて書いて下さいました。ご本人の許 可を頂きここに掲載します。 なお、演奏会期日については私が「註」として追記しました(Concolor)。
************************************************************************************************ 「カラヤンとブルックナー」 カラヤンという指揮者とブルックナーがいかに関係が深かったかということは、驚くべきことに ベルリンにおける「カラヤン追悼コンサート」も偶然に曲目はブルックナーの9番であった、とい うことなのです。この89年9月のベルリン芸術週間のBPOのコンサートの曲目は、当初より(つま り同年の4月より)ジュリーニの指揮で9番と決まっていましたが、その年の7月にカラヤンが亡く なり、急遽このジュリーニ指揮のコンサート(最初の日のほう)がベルリンにおける公式の「追悼 演奏会」になったのでした。私は2日間ともチケットを持っていましたので、このジュリーニのブ ルックナーの9番をじっくりと味わえたのが幸いでした。実にカラヤンの追悼にふさわしい指揮で したよ! 「追悼演奏会」の日は、ブルックナーの9番の前にシューベルトの「未完成」の第2楽 章が指揮者なしで演奏されました。BPOが「カラヤンの思い出に捧げる」ということでコンサート マスターのシュピーラー氏がオケに合図をして演奏されたのでした。その後(いや、ひょっとし てその前だったかな?)オケメンバーと会場の聴衆全員が立ち上がって、亡きカラヤンに黙祷を捧 げたのでした....。(そして確か、あのヴォルフガング・シュトレーゼマンも悼辞を読みまし た)。 この最初の日のコンサートは拍手は禁止でしたので、ジュリーニも聴衆に向いて挨拶する ことなく、Vnの第1プルトのスタブラヴァ氏と安永氏(シュピーラー氏は引込 み、最初裏だったスタブラヴァ氏が表に座り、安永氏が登場して裏に坐った)としっかり握手、そ して指揮棒をゆっくりと降ろすと、あの冒頭の深い霧が立ち込めたのでした。(いやあ、この2日間 共、ジュリーニの指揮は最高でした。ここはカラヤンのHPですので、ジュリーニの指揮の話はや めておきます。) 第3楽章の終結部は、本当に彼岸に達した音楽と演奏! 冒頭の霧から彼岸の 終結部まで、確か72分という時間を費やして指揮したジュリーニの9番ほどカラヤンの追悼にふさ わしい音楽と演奏はないと言えると思いました。拍手なしの静寂の中をジュリーニが退場、オケも 退場、そして満員の聴衆も無言でファワイエに退場したのでした....。私も万感胸に迫ってき て、しょうがありませんでした.....。 それにしても、カラヤンの生前から決定されていた、 この9月のジュリーニ指揮BPOの演奏会の9番....とても因縁を感じてしまうのです。 ************************************************************************************************ 註:1989.9.10.第39回ベルリン芸術週間 ジュリーニ指揮、ベルリン・フィル、カラヤン追悼演奏会 これは2002.7.28.当サイトのゲストブックにla_vera_storiaさんから頂いた投稿です。 註は私が追記しました(Concolor)。
************************************************************************************************ 「カラヤンの『パルジファル』の想い出」 今夜は、私が生涯にたった一度だけ体験できたカラヤンのワーグナー作品の舞台上演について書く ことにします。カラヤンの指揮によるオペラはかなりの回数観ていますが、ワーグナーについては たった一度だけ、それは1980年のザルツブルク復活祭音楽祭での「パルジファル」です。 今でこそザルツブルク復活祭音楽祭の切符は簡単に入手できますが、当時(カラヤンの存命中) は入手が簡単ではなく、しかも「復活祭」に「パルジファル」という組み合わせの80年の切符入手 は困難を極め、四方八方に手をつくして、ようやく入手できたものでした。そうして、まだ肌寒い 4月上旬のザルツブルクの祝祭大劇場に私と一緒に出かけていったのは、当時すでにオペラ狂に なっていた母でした。 着席してみれば、なんと前から2列目で、しかも指揮者のななめ後ろという絶好の場所でしたの で、カラヤンの指揮振りを直近でよく見ることができたのが幸運でした。といいますのも、このカ ラヤン指揮の「パルジファル」というのは、結論から書きますと、完全にカラヤンだけの音楽に なっていた、ということなのでした。それに、当時は、実演を聴いてもいないくせにすでにペー ター・ホフマンのファンになっていた母にとっても幸運だったということでしょう。 開始を待つ会場の聴衆も、緊張感でピリピリとしていました。そうしてカラヤン登場とともに始 まった上演ですが、とにかく鮮烈だったのはカラヤンの指揮そのものでした。あの荘厳、厳粛とも言 える前奏曲開始のタクトをゆっくりと下ろすあたりから、会場の聴衆の全神経が、カラヤンのタクト の先端の動きに集中していたといっても過言ではないでしょう。実感としては、非常にテンポが遅 かったですね。ベルリンフィルの弦も金管も、実に濃密な音を出していた記憶があります。前奏曲の 終了するあたりで気が付いたのですが、私はあまりに手を握り締めたままで、汗をびっしょりとかい ていました。 さて、とにかくこうやって最初から会場を完全に自分のペースに引き込んだカラヤンでしたが、こ のタクトの上にのっかってグルネマンツ役のクルト・モルの澄み渡った声というのが一番印象に残っ ていますね。カラヤンの、濃厚かつ精妙な指揮にピタリと100%一致した声だなあという印象。一番 びっくりしたのは、クンドリー役のドウニャ・ヴェイソヴィチでしたね。割と静かな印象があったも のの、舞台上ではなんだかぞっとするような雰囲気がありました。何ヶ所かで音程が非常に不安定な ところがあったような記憶がありますが、致命的な欠陥とは感じませんでした。この、「静かなク ンドリー」というのもカラヤン好みのクンドリー像だったのかもしれません。彼女がパルシファルに 水を運んできて、あと退場するシーンだったかは、まるで空気のように魔女という雰囲気。ここいら が非常にカラヤン好みの歌手だということでしょうか.....。 舞台といえば、これはやはり照明の色彩(前半の森はもちろん緑、後半の聖堂は青を基調としてい ました)が記憶に残っています。聖杯騎士たちの配置なども、これは写真で見たヴィーラントの演出 と非常によく似ていました。ただ、聖堂内では照明を微妙に調整して、状況のへんかをというものを 表現しようという意図があったようですが。ちょっと安っぽいところがあったような印象でした。 さて、第1幕でとにかく圧倒的だったのは騎士達の集合から、聖杯の儀式、そして退場という一連 のところです。あの天の声、少年たちの声、そして合唱のところなどは、もう胸が一杯になった記憶 が今でも鮮明です。なんというか、人の心をグッと掴んで、吸い込んでしまい、完全に音楽に乗せ てしまうカラヤンの指揮の魔力!この部分を指揮しているカラヤンの横顔をななめ後方から見ていま すと、顎を固く閉め、頬がピクピクと痙攣しており、顔が高揚して汗がにじんでいたのがよく見えま した。 (続く....) 「カラヤンの『パルジファル』」(その2) さて、以前このトピでも話題になった「パルジファル」第1幕終了時の拍手のことですが、私の体 験した80年のザルツブルクでは、控えめで静かな拍手がありました。ところが、カラヤンはピット の指揮台から降りる時に、てのひらを下にして、右手を斜め後ろ(つまり客席側)に対して、すうっ と伸ばしたところ、会場の拍手が引いてしまいました。あれはやはりカラヤンが聴衆に対して「拍手 をするな」という合図だったようです。それにしてもさすあカラヤン、拍手を制止する動作までが、 さまになっているとは! 第2幕、ここで素晴らしかったのは花の乙女達の甘美な声でした。今にして思えば、多少甘い砂糖 が多かったように思います。一番の問題点は、魔法の花園の花が本物の花を用いていた演出だったこ とです。ザルツブルク祝祭大劇場に行かれた方なら、どなたもお気付きかと思いますが、あの劇場と いうのは内部の換気が非常に悪いですよね。ああいうところで本物の花が舞台上に存在すれば、植物 独特の臭い(必ずしもいい臭いではない!)が会場に充満し、かなり居心地の悪いことになります。 現実に私も第2幕終了時点では頭痛がしてきてしょうがなかったです。 しかし、設定が花園だからといって本物の花を持ってくるのは、単なる意表をついた演出という以 上のものではなかったと思いますね。どうして花園の花だけがリアリズムとして登場するのか?あの 祝祭大劇場のステージは広いために、無駄な空間が生じてくるのはわかりますが、それをこういう ちゃちなリアリズムで補おうとするところなど、カラヤン演出がリング上演の際にも批判されたとい う話の真実の一端があるような気がしました。あれほどの美声の乙女たちがステージに存在して、な ぜまた本物の花が必要なのか? とはいうものの、クンドリー役のヴィエソヴィチの声も安定感を取 り戻していた記憶があります。さて、ペーター・ホフマンのパルジファルについてなのですが、端的 に言えば、あくまで受身の姿勢が目立ったパルジファルだったと覚えています。パルジファルとい う役がはたして「積極的」「能動的」といえる役であるかどうかは別の問題でしょうね。しかし仮に そういう役でなかったにせよ(つまりあくまでも受動的な役だったと仮定すると)、そういう役に意 欲的に取り組んでいるという姿勢はホフマンにはなかったと思います。(これと正反対だったのがル ネ・コロでした。この2人の比較は、別の機会にやりたいと思います。)同じようなことは、第1幕 でのアンフォルタス役のホセ・ファン・ダムの歌唱にも言えると思いました。この2人は完全にカラ ヤンが操縦している駒ではなかったか、との印象。クルト・モルはそれを突き抜けたものを感じまし たが。仮にこの80年の時に、パルジファルをルネ・コロが歌っていたらどうだったか?(ありえな い話でしょう。確か76年だったかに、コロとリッダーブッシュはカラヤンと「決別」してしまいま したからね。あくまでも仮定の話としてです)コロならばカラヤンの駒以上のパルジファルを歌えた と思います。ただ、「パルジファル」という作品で非常に重要なのはグルネマンツでありアンフォル タスであって、パルジファルは必ずしもそうではないですが。 第3幕ではなんといってもクルト・モルの演じるグルネマンツの「聖金曜日の奇蹟」を中心とした 部分の感動的な名唱が記憶に残っています。そしてベルリンフィルの濃厚で、かつ味わいのある表現 力が物を言っていましたね。いやはや第3幕ともなると、もう歌手がどうのこうの演出がどうのこう のではなく、時間の経過そのものがある種の感慨を抱かせるという印象。カラヤンの指揮も、終わり に行くに従って緊張からの解放と、そして一段高められた世界へ聴衆を導いたような感じでした。 終演後、会場から夜も更けたザルツブルクの街に出ました。とても疲れた...これほど疲労した 自分は珍しいと感じていました。他の聴衆はかなりにぎやかにおしゃべりしていましたが、私も母も 疲労困ばい....。ホテルへの途中で母がポツリと一言、 「カラヤンっていうのは、本当に、本当に....凄い指揮者なのね....。」 それから3年くらいしてだったか、ようやくカラヤン指揮の「パルジファル」のLPを聴きまし た。びっくりしたのは、あの実演よりも、もっともっとテンポが遅かったこと。カラヤンという人 が実演で遅いテンポの曲を指揮する時は、実際に経過した時間以上にテンポが遅く感じられる場合が 多いと思います。 私も「パルジファル」の実際の上演はかなりの回数を観ています。しかし、こと指揮に限定すれば、 80年のカラヤンの指揮を超える「パルジファル」は経験したことがありません。祝祭大劇場で金縛 りにあった経験は忘れ難い思い出です。 ************************************************************************************************ 註:1980.4.7.BPO、ザルツブルク復活祭音楽祭 これは1980年ザルツブルク復活祭音楽祭でカラヤンの指揮による『パルシファル』を実体験なさっ たla_vera_storiaさんがYahoo掲示板に2002.2.28.投稿した文章です。ご本人の許可を頂きここに原 文のまま掲載します。Yahoo掲示板に投稿なさった時は2部構成で、「カラヤンの『パルジファル』の 想い出」「カラヤンの『パルジファル』」(その2)になっていますが、ここでは続けて記載しました。 「註」として演奏会期日については私が追記しました(Concolor)。
************************************************************************************************ 「ウィーンのカラヤン」 私にとっての「ウィーンのカラヤン」ということですと、実は別のところなのです。 Concolorさ んは、あの有名な楽友協会大ホールに行かれたと思います。あのホールは、リンクに面して建ってい る格式の高いHotel Imperialの後ろ側にあるでしょう? このホテルのリンクと反対側には、通用 口があるのですよ(御存知でしょうか?)。この通用口か出ると、小さな通りを渡ると、そこはすぐ 楽友協会の建物の通用口(いわゆる正面口ではありません)です。 あれは80年代の半ば頃でした か、カラヤンがVPOを指揮する演奏会(ドイツ・レクイエムだったかな...)があり、まだ演奏 会の始まる2時間も前だったかに、あの通りをちょうど通りかかったら、なんとHotel Imperialの後 ろの通用口から、カラヤンが出てきたのを見て、私はびっくりして立ち止まってしまいました! 両 脇を人に支えられて、ようやく歩く姿は本当に痛々しかった! カラヤンはそのまま、その通用口か ら楽友協会のホールの通用口に弱々しく姿を消したのでしたが、その日のステージで観た彼は、2時 間前の姿とは別人のように存在感がありました。 私はカラヤンが亡くなったあとも、楽友協会ホー ルに行った時は、いつもあのホテルの通用口を見つめて思い出すのです....あの生前の カラヤンの姿を...。 私にとって「カラヤンのウィーン」あるいは「ウィーンのカラヤン」というのは、あのHotel Imperialの後ろの通用口なのですよ.....。 ************************************************************************************************ 註:1985.5.26.ムジークフェラインで行われたウィーン・フィルとの「ドイツ・レクイエム」 これはla_vera_storiaさんに投稿いただいた「ウィーンのカラヤン」です。 註は私が追記しました(Concolor)。
************************************************************************************************ 「カラヤンコンクール・イン・ジャパン'77」 あれは私がフランスより一時帰国していた時のことでしたが、確かこの77年公演の東京での初日 の演奏会(確か日曜日だったと思います)のある日の昼間だったと記憶しています(違ったかな.. ..?)。 カラヤンが日本での指揮者の人材を発掘したいとの希望で行なわれたコンクールであり、 3人の若手指揮者がカラヤンの前でベルリンフィルを指揮をすることになりました。その3人とは高 関健さん(結果的には第1位)、竹本泰蔵さん(結果的には第2位)、今村能さん(結果的には第3 位)でした。 当日のステージに陣取ったベルリンフィル....当日はカラヤンの2人の娘さん(イザベルさん とアラベルさんでしたっけ?)も会場に来ており、当時のベルリンフィルのインテンダントをしてい たウォルフガング・シュトレーゼマン氏が、この2人の手に古式ゆかしく挨拶のキスをしていたのを 近くで目撃することができました。 さて、司会者(誰だったか忘れました)が開会の挨拶をし て、「では本日の審査をするヘルベルト・フォン・カラヤンさんを御紹介します」と言うと、カラヤ ンが笑顔で片手を挙げて聴衆に挨拶しながらステージに現れました。黒の革ジャンバーを着ていて、 本当に精悍ないでたちでした。そして指揮台の正面の椅子にどっかりと腰を降ろし、ジャンバーを脱 ぎますとその下も黒いセーター....とにかく素敵でした! そして次々に登場した3人の若手 指揮者の指揮振りを、正面に腰掛けた椅子から大変にリラックスした様子で、注意深く観察していま した。あんな至近距離でカラヤンに観察され、そしてあのベルリンフィルを指揮することになった3 人の若手は大変だったに違いありません。私の記憶に間違いがなければ、最初に今村さんがベートー ヴェンのエロイカの第1楽章を振りました。かなり緊張していたせいなのか、なんとなく自信なげに 見えました。次は確か竹本さんだったかな....ブラームスの2番の第2楽章を振りました。これ は腰が据わっていてよかったと記憶しています。そして確か最後は高関さんがブラームスの2番の第 1楽章を振りました。なにか茫洋としたところがあったと記憶しています。私が驚いた記憶があるの は、ベルリンフィルが手を抜いて演奏しているという雰囲気がまるで無かったこと。 それもそうで しょうね、御大のカラヤンがいるのですから。 こうして3人の指揮が終わったあと結果発表となり、最初に書いたとおり高関健さんが1位となり ました。カラヤンは、「大変に満足できた。3人ともベルリンに連れていって勉強してもらうことに する。」と発言し、会場も沸きました(とはいっても確か、会場は半分くらいしか入っていなかった と記憶していますが)。 コンクール終了後にカラヤンが会場でリハーサルを行なうという旨は、コンクールの開始時点に司 会者から聴衆に伝えられ、その時に会場では拍手がおきました。 そして審査結果の発表後、会場の 聴衆が固唾を飲んで見守る中、いよいよカラヤンが指揮台に上がりました。当日夜(だったと思いま す)の演奏会の曲目である、ベートーヴェンの第1交響曲のリハーサルとなったのです。 会場も緊 張に包まれたのを覚えています。 さて、第1楽章の冒頭で木管、そして弦に受け渡される序奏の部分、そして弦の主題提示部への移 行と、確か3回くらい繰り返されたのを記憶しています。この移行部分というものにカラヤンはこだ わりを持っていたのでしょうね。さすがにカラヤンが指揮台に立つと、先ほどの3人の若手の方々と はベルリンフィルの音がちょっと違うように思いました。この冒頭から主題に入る部分だけで、カラ ヤンはあっさりと第1楽章は終わりにして、次の第2楽章に移りました。 ここでは私の記憶では確 かテンポを正確にとるように指示していたような記憶があります。当日のリハーサルではカラヤンは マイクを使用していませんでしたし、彼の声もそれほど大きな声ではなかったので、客席では彼の しゃべっている内容があまりはっきりとは聴こえませんでした。 私がはっきりと覚えているのは、 カラヤンは左手の手のひらを上に向け、右手の手のひらをおろし、両手を何度か規則的に叩いて、 正確なテンポとリズムをベルリンフィルの団員に指示していました。第3楽章は本当に最初の数小節 だけで、こちらもあっけにとられてしまいましたが、終楽章では最初のフォルティの和音(ティンパ ニの強打!)から、ピアニッシモに音を落とし、そこから密やかに流れるように主題がほとばしり出 てくる部分、そこのところをやはり3回くらい繰り返していたように覚えています。あまりクドクド と説明しなかったところをみると、もうベルリンフィルとのそれまでのリハーサルの蓄積があったか らなのでしょうね。 次に第3番「英雄」のリハーサルに入りました。この曲に関しては、第1楽章はほとんどさわりの 部分だけで、すぐに第2楽章に入りました。この楽章では中間部分で長調に転調してオーボエ(当日 はローター・コッホでした)の歌から大きく盛り上がる部分について、確か3回くらい繰り返された ように思います。中間部分のクライマックスに達する直前で、カラヤンは指揮棒を止め、数語なにか 喋っていたように思います。第3、4楽章については、どこをさらっていたのだったか、今では ちょっと記憶にありません。 こうして全体として約30〜40分のリハーサルでした。当日夜(?)の演奏曲目について、各楽 章のほんのポイント部分をサラリと繰り返したという程度だったかもしれませんが、しかし第1交響 曲での例の通り、カラヤンは移行部分については重要に考えているらしく、再度団員に念を押して確 認しておきたかったのだと思いました。 コンサートマスターはミシェル・シュヴァルベでした。 もう彼とは気心も通じているのか、カラヤンもシェヴァルベの方へは時折顔を向けて、確か二言三言 の会話があった程度。それよりも木管奏者に対して直接話し掛けて指示を繰り返していたのを覚えて います。 そしてリハーサルも終了。 会場からは感謝の拍手が出て、カラヤンは指揮台を降りる時に、聴衆 に向かって軽く頭を下げていました。 そして黒の革ジャンバーを再び身にまとい、軽く聴衆に向 かって手を挙げて、下手のほうに退場しました。 カラヤンのリハーサルを観るという千載一遇の機 会を得られたことは本当に思い出となりました。 私はこの時の来日公演では、ベートーヴェンの 4,5,6,7番の交響曲を聴けましたが、それよりもこのリハーサルの思い出は特別のものでした。 ************************************************************************************************ 註:「東京初日の公演」「日曜日」という事から、コンクールと公開リハーサルは1977年11月 13日(日曜日)と思われます。 これはla_vera_storiaさんに投稿いただいた「カラヤンコンクール・イン・ジャパン'77」です。 カラヤン/ベルリン・フィルが1977年来日公演を行った時、同時に日本で行ったカラヤン・コンクールと 同日行った公開リハーサルを実際にご覧になった体験記です。貴重なレポートを有難うございました。 註は私が追記しました(Concolor)。
************************************************************************************************ 「早稲田大学でのカラヤン」 前回、1977年来日時の「カラヤンコンクール・イン・ジャパン」のことを書きましたが、その次 の来日であった1979年の秋にも珍しいことがありましたので御紹介いたしておきましょう。それ は、カラヤンが早稲田大学より名誉博士号を授与され、その授与式で学生(早稲田大学)のーケスト ラを指揮してリハーサルを行ったということです。 カラヤンが早稲田大学より名誉博士号を授与され、その授与式で指揮をするという情報を得た私は、 同大学の学生だった友人に無理やりに頼み込んで授与式の入場整理券を入手しました。 カラヤン指 揮のコンサートはその時まで日本やヨーロッパでベルリンフィルやウィーンフィルで聴いていました が、今回は学生のオケを指揮するというので、これは大変珍しく聴き逃せないなと思ったからでした。 1979年、確かあれは10月のことでした。 授与式の当日、会場となった同大学の正門にある大 隈講堂前には、開館前から多くの学生が集まっており、熱気にあふれていたことを思い出します。同 大学関係者その他も多かったようで、開館後は私と友人は2階に陣取りました。 授与式が開始されましたが、まず会場内にカラヤン登場の紹介のアナウンスがあって、確か記憶では 同大学の校歌である「都の西北」が流れるなか(違ったかな? 退場の時だけだったかな?)、カ ラヤンが少し足を引きずりながらゆっくりとステージに登場した時(確か、すでに学位帽をかぶって いたと思いますが.....)、会場は大変な歓声と盛大な拍手でカラヤンを迎えまた。式は確かそ の次に同大学の総長(お名前は忘れました)が祝辞を述べ、そしてステージの中央に座っていて立ち 上がったカラヤンに証書(?)などを渡しました。カラヤンは中央を向いて、例の彼独特の表情 ― 首をほんの少しだけ傾けて − 微笑しながら、盛大な会場の拍手に答えていました。そのあとだった かに、カラヤン自身よりスピーチがありました。内容はほとんど忘れてしまったのですが確か、大学 で学ぶことの意義と今日における大学の役割、というような内容だったように記憶しています。 このあとですが、いよいよ同大学の学生のオーケストラ(早稲田大学交響楽団)と、シュトラウスの 交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」のリハーサルが行われました。事前の名誉博 士号授与式の予告では、記念演奏としてこの曲がカラヤンの指揮で演奏される、というような予告だっ たと思います。しかし当日のカラヤン(勿論指揮棒などは使わずに)が行ったのはリハーサルでした。 リハーサルでは確かマイクは使用していたように記憶していますが、客席からはその言葉の内容まで はつかめなかったですね。この曲の冒頭からホルンのテーマが現れる箇所でオーケストラを止めて一 言二言、注意を行っていたと思います。ここの箇所、結構カラヤンがこだわって何度もやり直させて いましたね。カラヤン自身によるリハーサルは確か15分程度だったでしょうか。その後、確か例 のカラヤンコンクール・イン・ジャパンで優勝した高関さんにリハーサルを引継いだと思います (違ったかな? 別の人だったかな?)。ちょっと拍子抜けしたのを覚えています。 このリハーサルが開始される前から、確か新聞社のカメラマンとか民放TVのクルーがこの授与式の模 様を映像に収めていました。カラヤンが「もう撮影はこのへんで終了して下さい。」と言ったにもか かわらず、TV局のクルーは撮影を継続しようとしていましたので、カラヤンはやや皮肉っぽい微笑を 浮かべつつ彼らのほう向いたまま動かなくなりました。撮影を止めるまでは断固として動かない、と いう強い態度が周囲に発散されました。いや、さすがに「帝王カラヤン」といったところです。会場 の学生は、こういうカラヤンのTV局クルーに対する態度をたちどころに支持しました。 どこからと もなく会場から「帰れ! 帰れ!」というシュプレヒコールがおきました。TVクルーはその学生達の 声に押され、しぶしぶ撮影機材を片づけて退場したのでした。その瞬間カラヤンは満足そうな笑顔を 見せ、会場の学生達からは大きな拍手がおきました。 この一部始終は今でも強く印象残っています。 要するに、演奏における彼の意図を団員自らが実現させるように誘導するやり方と同じように思いま した。最初に自分の態度を明確に示し(「撮影を止めて欲しい」)、その目的の実現を回りの人間が 行うように仕向ける(「当日の会場の学生達が自然にクルーへの抗議の声を上げるように誘導する」) .....。 カラヤンという人のやり方の巧みさを示した見事な一例をまざまざと見せ付けられま した。 さて、早稲田大学交響楽団とのリハーサルの最後にカラヤンがスピーチをしましたが、これも印象に 残っています。 カラヤンは最後にマイクをもっていきなりオケの団員と会場の学生達に、「イギリ スの公園の芝生は何故あれほど見事なのかわかりますか?」と切り出しました。通訳の方はカラヤン が突然「イギリスの芝生....」などと唐突なことを言い出したので最初はよく意味がわからなかっ たのかもしれません、眼を白黒させて「イギリスの芝生....ですか....?」とカラヤンに聞 き直したのを覚えています。 カラヤンは以下のように言いました。「イギリスの公園の芝生が素晴 らしいのは、何百年かにわたって丁寧に手入れを行ってきたからです。皆さんのオーケストラも、根 気強く長い時間をかけて練習を積み重ねて下さい。必ず見事な成果が得られます。」ということでし た。会場からは大きな拍手がおきました。 会場の学生達はあの「都の西北....」の校歌を歌って拍手しながら、退場するカラヤンを送った と記憶しています。いかにも早稲田らしいなあと思った記憶があります(こういう光景は他大学では あまりないのではないでしょうか?)。 この年の日本公演で私が聴いたもののうち忘れられないの は、マーラーの第6交響曲とモーツァルトの「レクイエム」でした。前者は端正な造形と世紀末の退 廃の匂いが矛盾なく共存しており、また後者では甘美さのなかに哀感の漂う見事な演奏だったと思い ます。 何年かが経過し、私もすでに欧州勤務となっていた時に、この早稲田大学交響楽団が何度目かの欧州 演奏旅行に来ていた際に、そのメンバーの方々数名と食事をする機会がありました。当然あの79年 秋のこのオーケストラのメンバーなどは一人も残っているはずがないものの(「集まり散じて人は変 われど...」ということでしょうか)、私がカラヤンの名誉博士号授与式の場に居合わせた時の話 を彼らにしましたところ、皆さん非常にびっくりされると同時に大変に嬉しそうな表情をされ、カラ ヤンとそういう機会をもった自分達のオーケストラを誇りにしているようで、私も非常にすばらしい ことだと思いました。 ************************************************************************************************ 註:1979年10月13日、カラヤンは早稲田大学から名誉博士号を授与された。 これはla_vera_storiaさんに寄稿いただいた「早稲田大学でのカラヤン」です。 カラヤンが1979年10月に早稲田大学から名誉博士号を授与され、併せて学生オーケストラ(早稲田大学交響 楽団)のリハーサルを行ったのを実際に会場でご覧になった体験記です。貴重なレポートを有難うございま した。 註は私が追記しました(Concolor)。
************************************************************************************************ 84年ザルツブルクでの「ばらの騎士」 それは1984年8月末のザルツブルク、その年の夏は例年にも増して非常に雨が多くザルツブルク の住民も一様に「カタストローフ!」と言っていたはずです。そうはいうものの、私の気持ちはかな り高揚していました。とうとう待望の、カラヤンの指揮による「ばらの騎士」を祝祭大劇場で体験す るチャンスがめぐってきたからでした。当時のカラヤンはベルリンフィルとの関係が悪化しており、 この年の夏のザルツブルク祝祭(Salzburger Festspiele)、およびルツェルン国際音楽週間 (Internationale Musikfestwochen Luzern)に予定されていたベルリンフィルとのコンサートは ウィーンフィルが代演することになったほどでした。また、前年83年のザルツブルク祝祭は、彼は 体調が思わしくなく出演が危ぶまれるような状態だったはずです。(今にして言えば、この83年あ たりを境にしてカラヤンはさらに最晩年の演奏スタイルへと変化したように思いますが。) 雨の合間の夕方の祝祭大劇場のロビーは、ザルツブルク祝祭のいつもながらの華やかさに加え、演目 と出演者の組み合わせへの期待からか、いつも以上に浮き浮きした気分で満ち溢れているように感じ られました。(このような雰囲気と光景、もはや現在の夏のザルツブルクには絶えて久しいものと思 われます。戦後のザルツブルク祝祭の、その最後の輝きであったなどと言えば大げさでしょうか。) 前から7〜8列目の中央からやや左側に陣取った私ですが、ステージ下のオーケストラボックスの上 手から登場したカラヤン、予想していたほど弱っていたようには見えませんでしたので一安心。カラ ヤンは客席を見渡した後にオケ(ウィーンフィル)のほうに向き直り、一渡り団員を眺め回した後、 背中を引き締めるような緊張の動作のあと、両腕を前でぶるぶると動かしました。まるでそれは、 あのフルトヴェングラーが演奏を開始する際に行う仕草として彼の実演を聴いた経験のある人が描写 したものに似ているように思いました。私が「あれれ?」と思った次の瞬間、カラヤンの両腕は明確 に演奏の開始を指示し、ウィーンフィルの豊かなホルンが力強く奏されたのでした。この瞬間、今だ に本当に忘れ難いです。しばらくして気が付きましたが、当夜のカラヤンの指揮振り、それは非常に スムーズであったものの動作は抑制されていました。両腕が肩の上に上がる場面はほとんどなかった と思います、ただし一箇所を除いて....。 それはあの第2幕でファーニナル家に使者としてオクタヴィアン(アグネス・バルツァ)が登場する シーンでした。これは本当に凄かったです。このときカラヤンはまるで彼が往年のもっと若かりし日 の指揮振りを彷彿とさせるように両腕を一杯に上げ両手を互いに添えて、そしてここぞとばかり垂直 に振り降ろしました。その瞬間、あのウィーンフィルが大音響で鳴りわたりオクタヴィアンが登場し たのです。それはまったく鮮やかでした! この瞬間の興奮、それはまるで昨日の体験ででもあった かのように未だに生々しく記憶しています。 カラヤンの指揮振りでもう一つ強く印象に残ったことを書かずにはいられません。それは同じく第2 幕、オクタヴィアンとゾフィー(ジャネット・ペリー)が語らいつつ、お互いの愛を自覚していく シーンです。それはもうカラヤンのゆったりとした指揮ぶりもあり、本当に濃厚な歌が滑るように 進行していました。私はもう陶然となって聴きほれていましたが、突然隣に座っていたベルギー人の 老人が私のわき腹をそっと突き、オペラグラスを私に無理やり渡しました。「お前もこれでじっくり とこの素晴らしいシーンを見てみろ。」ということなのでしょう。私はそのオペラグラスを受け取り、 舞台ではなくカラヤンの斜め横顔をのぞいてみました。そうしましたところカラヤンはなんと眼を閉 じて指揮しているではありませんか! 私は驚きました。カラヤンはコンサートでは70年代後半を 境にして、それ以降は眼を開けて指揮するようになっていましたし、オペラでは以前からもほとんど 眼を開けて指揮していました。 眼を閉じてゆっくりと指揮している彼を見ていますと、あたかも それはカラヤン自身が、この第2幕の最大の聴かせどころで、遠くに過ぎ去りし自分自身の青春の日々 の思いを回顧でもしてでもいるかのような姿に見えたことです。いや、本当にそうとしか思えません でした。カラヤンのその姿に非常に心打たれました。 淡々と、そして滑るように進行した音楽でしたが、最大の見どころ(聴きどころ)である第3幕最後 の3重唱と2重唱...これについては今では具体的にその様子がどうだったかをあまり思い出せま せん。 非常に美しく、そして私の気持ちも非常に高まったことはよく覚えているのですが....。 これはひょっとして、あの第3幕前半のドタバタの場面から後半の元帥夫人の再登場から最後のシー ンまで...これら全てが誇張された起伏がなく滑らかに(平淡に)進行したから、具体的な記憶が 24年後の現在の私の頭に残っていないのかもしれません。しかしこれをもって当夜のカラヤンの 指揮と表現は平淡でドラマに欠けていたと結論付けたら、それは間違いのように考えます。今にし て考えてみますと以下のようなことで説明できるかと思います。 もし 第3幕のドラマの全てが、引き起こされる事件(状況)に対する登場人物の反応が今日的な心 理の変化を反映したものであるなら、そこに何らかの具体的に私の記憶に残るものがあったでしょう。 しかし、(少なくとも私にとっては)そうではなかったということは、ドラマの中で起きている事件 とその結果について全ては完全に「わかりきった当然のこと」であり、反応すべき登場人物の心の 起伏が問題なのではない....結果としてであっても、そういうようなことを意味しそうです。 これは、カラヤン自身が以前60年代前半にザルツブルク祝祭でこの作品を指揮した時とは大きな違 いがあるのではないでしょうか? 私はもちろん、その時代のカラヤンを体験などしていませんが、 カラヤンの60年代前半の「ばらの騎士」の演奏の多くは(映画、Noncommercial recording などを参照する限り)、元帥夫人を歌ったシュヴァルツコップフ、その他の名歌手の巧みな歌唱を内 包しつつ、全体としてはもっと「心理劇」としての起伏があったと思います。ところが、当夜(84年) のようにカラヤンの演奏が変化したのは....これは、そういう要素(起伏や心理劇)が彼にとっ ては不要になったからだと考えます。シュトラウス/ホーフマンスタールの「ばらの騎士」という 作品をある意味では換骨奪胎してカラヤンという老巨匠の回顧的な心情の発露としたようにも思えま した。そして彼はそれに成功したために、「ばらの騎士」としては非常に個性的な色合いを帯びた稀 有の演奏になったのだと今では考えています。 いささか落ち着きと風格に欠けた元帥夫人(アンナ・トモア=シントウ)、ややうつろなゾフィー (ジャネット・ペリー)、ドイツ語に癖のあったオクタヴィアン(アグネス・バルツァ)、もっと いやらしさが欲しかったオックス男爵(クルト・モル)など、歌手にはやや不満があったのは否めま せん。また、演出というよりは、より正確に言えば舞台の使い方にも疑問が残ったのは事実です。 横に広い祝祭大劇場の舞台を可能な限り有効に使おうという意図のためか、舞台上の登場人物の横へ の移動が大きくなる傾向がありました。その結果として、やや落ち着きの欠けた舞台上での動きに なっていたように思いました。 登場人物としては特に元帥夫人にそれがやや顕著であったようにも 思いました。とはいうものの、オーケストラの歌いこみの美しさ、それを全体としてコントロール すると同時に淡い詠嘆と懐古の情を華麗さの裏に染み込ませたカラヤンの指揮,これ以上の指揮に よる上演はもう決して聴けまいと思ったほどでした。終演後のカーテンコールにたった1回だけ舞台 上に登場したカラヤンは、下のオーケストラボックスのウィーンフィルの団員に向かって笑顔で拍手 を送っていました。会場の聴衆は彼の姿に大きな拍手と歓声を送り、彼の指揮を称えたのでした。 終演後、ザルツブルクの街中の安いレストランに入りましたら、中学生ぐらいの少年と明らかにその 父親と思える二人連れが入って来て、私の横のテーブルに腰を降ろしました。その少年、私は祝祭大 劇場ですでに気が付いていたのですが、先ほどまでオーケストラボックスのウィーンフィルのヴァイ オリンの末席で弾いていた少年でした。黒いスーツを着て、縁の黒い眼鏡をかけていましたが、なん とレンズの部分はガラスでした。少年であることを聴衆に気づかれまいと、わざと大人っぽい外見に 見せようということだったのでしょう(70〜80年代にウィーンフィルがザルツブルクで、将来有 望な若手をこうした形で実地の勉強をさせる場面を何度も目撃しています)。やや早めに食事を済ま せた私はテーブルから去る時に、隣のテーブルのその少年と彼の父親に「今夜の祝祭大劇場では本当 に素晴らしい体験ができました。カラヤンだけでなく、あなたの息子さんにも本当に感謝したいと思 います。」と言ったところ、少年の父親は誇らしげな満面の笑みを浮かべたのでした。この少年、今 頃どうしているでしょうか? ひょっとしてウィーンフィルの団員にでもなっているのでしょうか? この少年にとっても、あのカラヤンの指揮で「ばらの騎士」を弾いたのは一生の思い出になったので はないでしょうか? 何度も繰り返し恐縮ですが、あれはまさにあれは「回顧的演奏」でした。すでに去った遠い日々... かつての時代への郷愁、そしてカラヤンが自身の栄光に満ちたキャリアの、その最後の段階で自分自 身の遠く過ぎ去った青春を振り返っている....そういう演奏以外の何物でもないように思いまし た。 ************************************************************************************************ これはla_vera_storiaさんに寄稿いただいた84年ザルツブルクでの「ばらの騎士」です。 1984年8月25日ザルツブルク音楽祭の「ばらの騎士」をご覧になった体験記です。 1984年7月31日のザルツブルク音楽祭上演の「ばらの騎士」の映像ではカラヤンは燕尾服を 着ていますが、8月25日の公演では例の「詰襟」のような服を着て指揮していたということも 教えていただきました。 貴重なレポートを有難うございました(2008.2.22.)。
************************************************************************************************ カラヤン時代のベルリンフィル − 3人のコンサートマスターをめぐって 70年代初頭よりこのオーケストラに頻繁に接してきた私にとっては、やはり依然としてベルリンフィ ルハーモニー管弦楽団(以下、BPOと略記)の第一コンサートマスターといえば、ミシェル・シュ ヴァルベ(以下、MS)、トーマス・ブランディス(以下、TB),そしてレオン・シュピーラー (以下、LS)の3人が非常に印象深いです。80年代に入ってから以降の安永徹さん(以下、TY)、 ダニエル・スタブラヴァ(以下、DS)のお二人も親しみを感じます。 その後にコンサートマスター になった方々は....少なくとも私にとっては印象が薄く、もうどうでもよいような存在です。最 初に名前を出した3人が第一コンサートマスターだった時代、これこそ私にとってのBPOは「仰ぎ 見る存在」だったわけです。 MS、TB、LSの3人体制だった時代、カラヤンの指揮するコンサートでは常に第一ヴァイオリン の第1プルトにはこの3人のうち2人が座っていました。 組み合わせは3通りで、(MS+TB)、 (MS+LS)、(TB+LS)ということになります。これはあくまでも私の記憶ですが、(MS+ TB)、(MS+LS)の組み合わせでは、第1プルトの表(客席側)は常にMSだったはずです。 一方、(TB+LS)の時は、表は2人が交互に座っていたと思います。(カラヤン以外の指揮者の 場合で第1プルトに第1コンサートマスターが常に2人座っていたコンサート...これは私の記憶 ですが、ヨッフム、ベーム、ジュリーニの3人ではなかったでしょうか。)このお三方とも実に堂々 としていました。その中でもひときわ威厳があったのはMSでした。オーケストラのメンバーを起立 させ、そしてMSはメンバーを代表して一人で聴衆に一礼するわけですが、それはもうこの人が指揮 者であってもおかしくないというほどの仰々しいほどの貫禄でした。 この人がいると、会場の雰囲 気も違って感じたほどでしたね(TBやLSよりも出番の回数は非常に少ないようでしたが、そのこ とがかえってMSの威厳をより強く感じさせた原因なのかもしれません)。 このMSのコンサート マスターとしての存在を見ていると、「このコンサートは日常生活の延長なのではなく、それを超え た特別のものなのだ」ということを無言で示しているようなものでした。それだけではなく、ステー ジでのMSを見ているとMSは他のメンバーより一段高い地位にいるという印象も受けましたし、多 分MSもそれを自覚して振舞っているように思えました。 さて、この3人についてあくまでも私個人の印象ですが、「音」そして「音楽」ともに「BPO臭」 が最も薄かったのは、意外に思われるかもしれませんがそれはMSだったように感じました(これは 同じように実演を聴かれた多くの方の意見を聞いてみたい気もします。)。 反対に、最も「BPO 臭」が濃かったのはTBだと感じました。LSはこの中間よりややTB寄りの印象でした。こうい う比較というのも、オーケストラ作品でソロの部分があった箇所での比較になります。TBには「強 さ」、「濃さ」、「粘り」が存分にありました。こういう要素はMSには希薄でしたが、一方でMS にはTBにはあまり感じない「柔軟性」、「しなやかさ」がありました。ですから、カラヤンがブラー ムスの第1交響曲とかシュトラウスの「英雄の生涯」を指揮するときには常にMSがコンサートマス ターの表側でソロを弾いた(単にMSに対する信頼感だけではなく、つまりそれらの曲のソロ部分で はカラヤンはTBの音ではなくMSの音を求めていた)といえるのかもしれません。カラヤンはブラー ムスの第1交響曲の第2楽章や「英雄の生涯」のソロの箇所では、私の見た限りではMSに視線を送っ たのを私はいっさい見たことがありません。あたかもまるでMSの存在など無視しているように見え るほどでした。そのことは、カラヤンとMSとの関係が微妙だったなどということではなく、反対に それは完全にMSを非常に信頼していたからでしょう。 一方カラヤンがウィーンフィルを指揮した とき、コンサートマスターのヘッツェル氏やキュッヒル氏にソロの箇所があるときは、この2人が弾 く際に彼らに視線を落とすのはよく見ました。MSとTBとの比較に非常に近いのは、オーボエのシェ レンベルガーとローター=コッホとの比較だろうと思います。後者は「強靭さ」、「濃さ」、「粘り」 がありました。つまりTBの音楽に近いわけです。一方で前者は「柔軟性」「しなやかさ」そして 「透明」で「嫌味のない」音楽でした。MSとTBの違いは、彼らが室内楽のメンバーとして演奏す る場合にもっとはっきり出てきたように思いました。MSが参加した場合は、とりたててBPOの影 を感じるといったことはなかったように思いましたが(もっとも、私がそれを実演で聴く機会はたっ た一度だけでしたが)、TBが主宰していた四重奏団は何度も聴きましたがそれはもうリーダーのTB 以下、メンバーは完全に小型BPOの音がしていました。 私が好きだったのはTBがコンサートマスターの表側で登場した場合でした。そしてこの場合にチェ ロの首席にオトマール・ボルヴィツキー(以下、OB)が座ろうものなら、その夜は本当に白熱的な 演奏が100%約束されたようなものでした。TBとOBの視線の頻繁なやりとり、呼吸の見事さ、 そしてお互いに掛け合いでもするかのように大きく体を動かしてオーケストラを引っ張っていくとき の気合は凄かったです。OBというのは、私に言わせれば「ミスターBPO」とでも言うべき人で演 奏中の気迫が外に発散してきて、それはもう凄いものでした。TBとの相性もよかったようでしたし ね。一方、MSがコンサートマスターの場合は、MSとOBの「掛け合い」というものはほとんど感 じませんでした。ただ、OBの気迫がそれによってさほど弱められたりはしていないようには見えま したが。 LSについては、「対比の鮮やかさ」と「性格的表現」にその特徴があるように思いました。ですか ら、「ティルオイレンシュピーゲル」などのソロの部分などでは実に見事でした。LSはTBやMS がBPOを去ったあと、実質上はBPOのコンサートマスターのリーダー格でした。カラヤンの指揮 でそれまではMSが弾いていたソロを彼が弾くようになりました。やはりカラヤンは新顔のコンサー トマスターのTYやDSよりも、古顔のLSにソロを託したのでしょうか。LSはそれに見事に応え ていたように思いました。MSが定年でBPOを去った後にカラヤンは再び「英雄の生涯」をプロ グラムで取り上げますが、この時は当初は安永徹さん(TY)が第1プルトの表(つまりソロ)を弾 くことになっていたものの直前でLSに変更になりました(この交代は間違いなくカラヤンの意向で しょう)。ですから、80年代の映像・録音ではLSがソロを弾いています。MSの弾くソロとはや や印象が違うのは興味深いことでした。誰がどのコンサートでコンサートマスターの表と裏を弾くか については事前にオーケストラ(BPO)の側で決定されていると聞きましたが、それを覆すことの できたのはカラヤンだけだったようです。作曲家ダリウス・ミヨーの回想録で彼は、自分の指揮する BPOでのコンサートの時に自分が欲していたBPOの奏者が出演しないのが大変残念だったと書い ていたはずですが、それもいたしかたのない話でしょうね。(そういったカラヤンでも、自分が指揮 する時のウィーンフィルのソロを弾く首席奏者の変更は容易にできなかったそうです。) だからといって安永徹さん(TY)がコンサートマスターとして問題があったなどという感じはまっ たくしませんでした。TYはTBとは別の意味で、非常にBPOの別の特質を見事に体現されている 方だと思いました。 非常に聴き手のほうに真っ直ぐに向かってくる決然とした音楽をされますし、 倫理的、献身的ともいえるものも感じます。滑らかであると同時に陰影の深い表情を出すことも得意 のように思いました。MS,TB,LSの3人にひけをとらない素晴らしい音楽家のように思います。 ラトル指揮のBPOのコンサートに行っても、TYとDSの2人が第1プルトに座っているだけで私 はなんだか安心してしまうというのも、やはりそれはカラヤン時代の記憶を引きずっているからなの かもしれませんね(笑)。 ************************************************************************************************