News Archive

2002

▲UP7月27日

MELODIYAの《田園》と《英雄の生涯》

Classical CD Information & Reviewsの加藤さんがお知らせ下さった情報です。
Great Performance in Russiaというレーベルが、いままでMELODIYAからLPでしか発売されたことのない《田園》と、イタリアのJUPITARというところからCD化されたことはあるらしいものの、現物を見かける機会が少なくとも私にはなかった《英雄の生涯》のCD発売をアナウンスしているそうです。

Great Performance in Russiaの仰天の新譜?
Classical CD Information & Reviews内)

現在までのところ、これだけです。
加藤さんによる続報を期待しています(w。

《ヘンゼルとグレーテル》の放送録音

昨年の10月31日に、カラヤンの非正規音源としては珍しく私にとって印象深かった放送録音の《ヘンゼルとグレーテル》について書きましたが、このときご紹介した盤は、他のレーベルと比べて、いくらか見つけにくいものでした。
それが今度、大手レコード店でも容易に入手可能なはずのOPERA D'OROからアナウンスされています。

2002年8月マイナー・レーベル新譜(速報版)
CDショップ・カデンツァ内)

OPERA D'OROの盤はたいがい悲惨なほど音が悪いですが、もともと極上音源でもありませんので、雰囲気はそれほど変わらないはずです。

▲UP7月20日

Great Artists新譜

既発のCD-R盤ライヴをセット化して、約1枚分ほど価格を安く設定するGreat Artistsの新譜がアナウンスされています。

名演奏家貴重盤新譜 2002年9月末までの限定盤
CDショップ・カデンツァ内)

詳細は以下の通り。

リンク先にあるように、FKM-CDR-162を原盤にしているのであれば、《メタモルフォーゼン》は翌25日の演奏なのではないか、と私は思います。

▲UP7月16日

13年と1年

みなさんご承知のように、今日はカラヤンの命日です。
13年前の今日、ヘルベルト・フォン・カラヤンは亡くなったのでした。

ということは、このサイトを公開してから1年経ったわけです。

このサイトを立ちあげたときの私の目標は、月に1,000アクセス、または日に30アクセス、最低年10,000アクセスでした。
設置したカウンタは同じ閲覧者の同日内の重複アクセスをカウントしません。
それにも関わらず、1年で16,000アクセスというのは、私の目標を大幅に越えており、大変嬉しく思っています。

創造芸術家と違い再現芸術者は死んだ瞬間から風化が始まります。
私は1年前の今日と同じく、カラヤンが戦後再建されたフィルハーモニー・ザールの定礎式で述べた言葉を想い出します。

われわれベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の響きと同じように美しく完璧でありますように

残念ながら、このサイトのデータはまだまだ完璧とはいえません。
しかし実に緩やかな速度ながらそれは着実に進んでおり、しかもその進みゆきはたとえわずかであっても、人々を巻き込まずにはいられません。
そうして私の目標は1年前と全く変わらないのです。

1年前の13回忌にこのサイトを公開すると決めたとき、幾人もの友人に、「縁起が悪いから止めろ」といわれたものでした。
しかし、と私は思うのです。
たかが微力な一ファンとしては叶わないかも知れないが、しかしそれでも最も強く願うことは、カラヤンを死なせないことではないか、いつまでもいつまでも「歴史」にせず、生々しく記憶してゆくことではないか……
それは紛れもなく、カラヤンが亡くなった日を起点としています。
だから何かを命日から開始するというのは、決して悪いこととは思いません。
その日始められる新たな「歴史」は、その日がない限り存在しようがないのですから。

結局私の最大の理想は、カラヤンが忘れ去られないことです。
それがまがまがしい悪意と意識的な低能さに晒されるものであるならばなおさらに、私はこれからもただひたすら、このサイトを作ってゆきます。

とりとめがなくなってきましたので、このあたりで。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。

書物たち

他に特別な企画も思いつかなかったので、ここ半年ほど、入手しておきながらBooksに追加しなかった関連書籍について一気に書くことにします。

『DIE GROSSEN INTERPRETEN HERBERT VON KARAJAN』

30ページほどの薄い書物ですが、大きさはA4サイズの横を少し縮めたくらいあります。
ドイツ語による解説とモノクロの写真が半々くらいです。
確か『カラヤン 栄光の裏側に』に記述のあった、作者がフルトヴェングラー夫人からもらい受けたカラヤンの写真集というのは、これのことだと思われます。
巻末にはカラヤン自筆の書簡が収録されています。

「DIE GROSSEN INTERPRETEN」という演奏家のシリーズで、他にアンダ、バックハウス、カラス、フルトヴェングラー、ギーゼキング、ケンプ、デ・サバタ、シュワルツコップ等、全部で35人34冊(メニューインとエネスコは2人で1冊)あったようです。

1963年刊。

『HERBERT VON KARAJAN』

1968年刊。
先ほどの『DIE GROSSEN INTERPRETEN HERBERT VON KARAJAN』は解説と写真が交互に入り混じって掲載されていましたが、こちらはまず最初の半分がドイツ語による文章、残りの半分が写真(モノクロ)と、はっきり分かれています。
大きさは20cm弱*15cm弱くらいの小型本、ページ数は60ページちょっと、厚さは7mmくらいなのですが、表紙・背表紙がしっかりした厚手のもので、何となく絵本のような感触があります。

『カラヤン カタログ303 盤歴カラヤン』

黒田恭一の1976年までのカラヤンの全録音をまとめたディスコグラフィーです。
「盤歴」という、とても雰囲気の良い言葉が使われています。

余談ですが、「ジョギング」という言葉をどう訳そうか困った、という翻訳家の話を聞いたことがあります。
最近の外来語の浸透速度は実に素早いので、良い翻訳語というのが出現しなくなりましたね。
映画のタイトルがそのもっとも大きな例でしょうか。

話が逸れました。
当時のファンにとってはバイブルだったでしょうが、さすがにいまとなっては役に立つ書物ではありません。
それと、何かと混同されていたのか、シュナーベル:管弦楽のための狂詩曲、なんていうのも載っています。

1976年発行。
雑誌『ステレオ』の連載分をまとめたもの。

シュトレーゼマンの2冊

カラヤン時代をほとんど丸ごと覆ったBPOのインテンダントで、引退後もザビーネ・マイヤー事件のときに高齢にもかかわらず復帰したウォルフガング・シュトレーゼマンには、カラヤン関連の書籍が2冊あります。

1冊は『全軌跡を追う』にも掲載されている『ベルリン・フィルハーモニー 栄光の軌跡』です。
これはシュトレーゼンマンがインテンダントに任命されてから、実際に見聞きした指揮者たちの評伝と回想録で、さすがにカラヤンには多く割かれ、全体の半分近くがカラヤンについての評伝です。
原書はBPO100周年記念を翌年に控えた81年に出版されました。

もう1冊にはいまのところ日本語訳はありません。
書名は『Ein seltsamer Mann... Erinnerungen an Herbert von Karajan』。
原書は1990年発行、私の手許にあるのは1999年発行のペーパー・バックです。
これはドイツ語のひたすら文章の書籍で、内容はまったくわからず、ほんの数ページ分の写真もありますが、特別目新しいものではありません。
いまでもドイツのAmazonで売っています。

Ein seltsamer Mann ... Erinnerungen an Herbert von Karajan.

『ベルリン・フィルハーモニー 栄光の軌跡』の方はBooksに追加しました。

『The Berlin Philharmonic Orchestra and its conductors through changing times』

お馴染みのJohn Huntが会長を務める英国フルトヴェングラー協会が、1982年のBPO創立100周年記念のときに出版した小冊子です。
高音質で知られる旧東ドイツのレーベルを中心に扱う神田の某LP店で、\50で見つけました。
書籍というより、当時の会報のような感じです。

カスケーディング・スタイル・シート・レヴェル2に対応したブラウザでは、このサイトの右下に、指揮棒を持って椅子に座ったカラヤンの影絵が見えるはずです。
この影絵は、この小冊子からパクって来ました。
後にJohn Huntの『Discographies』にも収録されました。
このサイトを公開前、画面の下にスクロールしても固定されたままの影絵を貼りつけるという考えはずっとあったのですが、なかなか良い素材が見つからなかったので、この小冊子を見つけたときには小躍りしました。

フルトヴェングラーがちょっと気の毒なような……

内容は英語で書かれたBPOの歴史と歴代指揮者の概略です。
作者はGisela Tamsen。
Booksには追加していません。

『ベルリン・フィルとの四半世紀』

カラヤン時代のBPOの主席クラリネットであるカール・ライスターの著作です。
極端に個人的な事柄を排した自伝、といえば適当でしょうか。
ライスターが在籍した当時のBPOの年代記で、史料としてはなかなか面白いかも知れませんが、読みものとしては単調です。

『全軌跡を追う』には関連書籍として挙げられていますが、Booksには掲載しませんした。

1987年刊。
原文は1985年から2年間、月刊誌『音楽の友』に連載されました。
そのため原書というものはありません。

『自伝ホセ・カレーラス 奇跡の復活』

オズボーンの『ヘルベルト・フォン・カラヤン』を読んでからずっと気になっていた、カレーラスの自伝を読みました。
まあ、呆れ返るほど下手くそな翻訳で閉口しました。

この書物は短いもので5ページ、長いもので30ページ程度の雑記のようなものがまとめられていて、厳密に順を追って章立てされているわけではありません。
カラヤンについては「カラヤンとの仕事」という一章があります。
以下、部分を引用します。

 へルベルト・フォン・カラヤンが、どのようにして私に注目するようになったか、私はずっと後になってから開き知った。カラヤンの一番の親友で、そうこうするうちに亡くなったアンドレ・フォン・マットーニと、カラヤンの長年の助手、ペーター・ブッセが、《仮面舞踏会》の初演の際、スカラ座の観客席にい合わせたのだった。どうやら、二人がその後でマエストロに、一度自分で聞いてみるべき若いテノール歌手がそこにいたことを報告したらしい。

 たとえどうであれ、さし当たり全く何も起こらなかった。しかし数ヵ月後に、カラヤンの当時のマネージャー、エミール・ユッカーが、カルロス・カバリエのもとに問い合わせてきた。一九七六年四月に、私があいているかどうかということだった。ヘルベルト・フォン・カラヤンが、ザルツブルク音楽祭のために私に出演契約を申し込んだのだ。それはヴェルディの《レクィエム》のテノール・パートだった。

 なんという申し出。たしかに私は、かれこれするうちに世界じゅうの著名な歌劇場でデビューしていたが、まだザルツブルクには行ったことがなかった。復活祭のために、あるいは夏の音楽祭の間、そこに滞在するということは、テノール歌手の、またもちろんそのほかあらゆる歌手の、経歴になる。ザルツブルクでは、世界で最も名高いオーケストラが演奏し、一流の指揮者やソリストたちが出演する。ザルツブルクのオペラ公演は、とにかく気に入ろうと気に入るまいと、最高水準のものである。この音楽祭では、お金は何の役にも立たないようだ。

 夏にザルツブルクで契約されている限り、一年じゅうオペラ界で無事に歌うことができると、いつか誰かに言われたことがあった。しかし、一年じゅう大きな歌劇湯で歌っていても、水準の低い歌手であることもあり得る。ザルツブルクがその区別をつけるのである。さらにその上、カラヤンの出し物に参加するという幸運を手にすれば、それはまさに特別の栄誉である。もちろん信望を博するためにもよい。

 私は、カラヤンのレコードはほとんどを知っていた。しかし、それまで、歌劇場コンサート・ホールで彼が指揮をしているのを見たことはなかった。せいぜいテレビで目にしたくらいである。彼はたしか一度、バルセロナの音楽堂で、ベルリン・フィルと客演したことがある。しかし、私はちょうど、その時バルセロナにいなかったのである。

 それ以来、何も変わっていなかった。私は、《レクィエム》の最初のリハーサルまで、マエストロと会わなかったのである。カラヤンは、ふだんオブリガートで先に立って歌うのだったが、私の場合、基本的にそれをしなかった。このことは、私を満足させた一方で、初めて私を本当に緊張させた。

 私たちの初めての出会いを、私は決して忘れはしないだろう。まず、カラヤンは私のホテルに電話をしてきて、スコアの、いくつか細かいことについてじっくりと話した。特別な希望を二、三述べてから、簡潔に言った。「明日の十一時にリハーサルでお会いしましょう」。

 十一時、いやな時間。というのも、これは恐らく私の睡眠リズムに合わないだろうからである。もう少し詳しく説明しよう。オペラ歌手の主たる活動時間は、もちろん夜である。特に南の国々では、真夜中過ぎにようやく終わる公演も多い。その後すぐに眠ることは、絶対に不可能である。たとえ体が疲労を感じていても、頭がはっきりと目覚めているのである。公演が、心理的に消化されるまで、それ相応の時間がかかる。従って、ベッドに入るのはたいていごく遅くなってからである。私は、自然に目が覚めるまで、ゆっくり眠る習慣である。十分に眠れば、体がもう「徴候を現わす」。残念ながら、私は必ずしも自分の睡眠リズムに合わせることはできない。私は飛行機に間に合わねばならないので、おそらく、討議やその他の予定は、その間に入れねばならない。リハーサルも、この予定のひとつである。しかし、リハーサルは、リハーサルではない。ヘルベルト・フォン・カラヤンとのリハーサルに、私は有名な歌劇場での初演であるかのように準備をした。もう何時間も前に、そう、六時頃から起きて歌い込みを始めた。私は、自分の頭にたたき込んだ、「声が自由にならなければならない。さもないと、すぐ彼に放り出されてしまうぞ」。

 そして、他のソリストたち、モンセラート・カバリエ、フィオレンツァ・コッソット、ホセ・ファン・ダムと、音楽祭の大劇場の舞台へ進んだ時、私は、もうしばらくなかったほどに気分が悪かった。

 カラヤンが現われた。大変機嫌がよく、皆に好意的な言葉をかけていた。誰かが、私をマエストロに紹介してくれた。彼は簡単に挨拶してから、すぐに仕事にかかった。

 オペラのリハーサルだったら、私にはすべて、もっと簡単だったろうと思う。指揮者と歌手の間に、広いオーケストラ・ボックスがあって、彼はある程度離れているからである。しかし、なんと、ミサの場合、彼のすぐ前に立つのである。マエストロと私との間には、たった一メートルしかない。それはあんまりだ、いや、言い換えれば、私には少なすぎる。ヴェルディの《レクィエム》の場合、最初の独唱部分がテノールに来るということが、すべてをもっと悪くするばかりだった。それ故に、私にとって最も恐ろしいことが起こった。〈キリエ・エレイソン〉の代わりに、かすれた、しわがれた声だけが鳴った。声が出なかったのだ。もっと後になってもだめで、私は、リハーサルの間じゅう、記号を書き込むこと以外に何もすることがなかった。

 カラヤンが、この新しいテノール歌手について考えていることを表情に出さなかったにもかかわらず、私は、もう終わりだと思った。このリハーサルにすべてがかかっていたものがあったことを、私は知っていた。つまり、カラヤンはおそらく次の夏に、ドン・カルロの役を私に任せるだろうといううわさがあったのだ。しかし、この、《レクィエム》のリハーサルの間に、その計画は、夢物語の世界に遠のいてしまった。

 その挫折の後で、マエストロはたしかに二、三励ましの言葉をかけてくれた。しかし、それは私の落胆をほとんど全く変えはしなかった。いったいどうしたらよいのか、私は敢えて尋ねようともしなかった。

 私の、ザルツブルクでの比較的近い将来は、電話で明らかになった。私の知らない、衣装部屋の女性が、予定をたずねてきたのである。私の寸法をとりたいという。ドン・カルロの衣装のための………。

 一九七六年四月十日の、ヴェルディ《レクィエム》の公演(ありがたいことに大成功だった)によって、カラヤンとのすばらしい共演が始まった。カラヤンとの関係は、おそらく私にとって、わが芸術家人生の中で最も非凡で、最も重要なものだ、ということに何の疑いもない。この共演の最初に、私がまだ、百パーセント完成した芸術家ではなかったということが、たしかに重要であった。カラヤンは、そのことを好んでいたのである。彼のもとで歌って欲しいという最初の申し出は、比較的早く来た。彼にとって私は、いわばオペラの処女であった。若い歌手たちと共演することは、たしかに彼の心をひいたのである。私は、カラヤンが望み、その上に築きあげようとする前提条件を、明らかに自分の声に携えて行った。

 指揮者カラヤンのすばらしいところは、下に父親が立っていて、自分のために指揮をしてくれているような気持ちにさせることである。舞台に立つと、歌手は自分のしたいようにし、したいようにさせることができると思う。カラヤンは、オーケストラと一緒に自分に従ってくれようママに思う。しかし、本当は全く逆である。それに気づかせないことが、カラヤンの指揮の技術の、大きな秘密のひとつである。彼が指揮台から、いわば作品の終わりまでずっと自分を運んでくれる間、歌手は、歌いながら、ものすごく自由で、確かであると思う。ミレルラ・フレーニは、かつてそのことを非常に適切に表現した、「カラヤンのもとで歌うことは、まるで寝心地のよいベッドで眠るようなものです」。多くの観客と、たいていの批評家が、指揮者カラヤンの方を、舞台監督カラヤンよりも明らかに優先させていることを、私は知っている。彼が現代的ではなく、型にはまっているということも、よく耳にし、目にする。あり得ることだが、私はそれは少し違っていると見る。カラヤンは、劇場人である。舞台と音楽がいかに共同しなければならないか、一致しなければならないか、を正確にわきまえている。音楽家としての彼は、歌手にどんな能力があり、どんな能力がないかを、承知している。歌手が舞台の上で、何か音楽に反するようなことをしなければならないなどということは、彼のもとでは私は一度も経験したことがない。私たちにとって、それは本質的なことである。監督の、気の狂ったような思いつきよりも大事なことである。私にとって、疑わしい場合には、おそらくつねに音楽を優先させるのと同様である。一般に、カラヤンについて、とりわけ難しい人間だということが言われる。公衆の前では近づき難く、人見知りをし、仕事の際には専制的で、独裁的である、と。彼と問題を起こしたのみでなく、ひどいけんかをした仲間が何人かいたことも、私はもちろん知っている。しかし、私は、ただ自分のために言うことができる、私たちの関係には、一度も、ほんの小さなかげも落ちたことはない。私はこれまでに、失敗をした時に嘲笑的な発言をされたことも、何かいやな言葉や軽蔑的なコメントを受けたことも、思い出すことができない。そんなことをされても、私には、彼の望むようにうまくできはしなかっただろう。彼は、私に対してつねに涙ぐましい思いやりを示してくれた。一九八七年五月に、オーストリアのテレビで中継された祝賀演奏会に、私は、足にギプスをはめて出演しなければならなかった。テニスをしていて、ケガをしたのである。その時彼は、翌日すぐに電話で、どうしたのか尋ねてきてくれた。また、バルセロナとシアトルの病院に長いこと入院していた間、マエストロは、何度も連絡をとって私を勇気づけ、将来の計画を練ってくれた。私にとってカラヤンは、近づき難いどころかむしろ反対である。私は、音楽とはおそらく何の関係もないさまざまなことを彼と、よく楽しく論議したものだ。さらに、彼は、すばらしくウィットに富んでいた。それは、彼が自分でも冗談を理解するということである。私は、そのことを示した出来事を思い出す。彼は、私と何か共演したくて、期日を挙げた。「残念ですが、マエストロ」と私は言った。「その日はオビエードでコンサートがあるのです」。「なんてことだ、オビエードだって?」、カラヤンは驚いたふりをして尋ねた。私は、カラヤンの経歴の最初の段階が、ドイツの町ウルムであったことを知っていた。それで、「それはウルムのようなものです」と答えたのである。彼のとりまきの何人かが、私の発言を失敬千万なことのように感じたにもかかわらず、カラヤンは、心から笑った。

 ザルツブルクでのヴェルデイの《レクイエム》の後、一九七八年だったと思うが、私たちの腰をかがめてのおじぎのし方が、なんとなくこっけいに見えたと、私はある友人から言われた。ミレルラ・フレーニ、アグネス・バルツァ、ニコライ・ギャウロフと私は、舞台ばなでカラヤンと並ぶと、先生を怖がっている生徒のような印象を与えた。そして、私たちの間に、目に見えない壁が立っているかのような印象も与えたのだ。

 この印象は、ずいぶん間違っていた。ひょっとすると壁のように見えたかもしれないものは、もっぱら、指揮者として私たちより一種、高い存在であるこの人に対する尊敬と賞賛である。見知らぬ星のようなものである。カラヤンは、この世のほかのだれとも異なったやり方で音楽を作るからである。彼の場合、すべてが論理的に組み立てられ、論理的に展開する。そして、この論理の結果、すばらしい深さに達するのである。

 それに加えて、つねに私に感銘を与えたのは、彼の鉄のような規律である。彼は、最初に来て、最後に帰る。この年まで私は、彼がリハーサルに一分でも遅れて来たのを、ただの一度もみたことがない。それ故に、そういう人間が、他のすべての人々にもこうしたプロの態度を要求することは、よく理解できる。彼にとって、規律のなさは許せない。従って私は、リハーサルの時いつも、ずっと一心不乱に声を出すよう努めた。カラヤンがこのように声を出すことを全然要求しないことがよくあるのは、全く別のことである。

 彼には、芸術家に対して、信頼し、信用していることを示す特別のやり方があった。芸術家を大事にするのである。私がいわば十分に歌いすぎると、彼は、ごくわずかなジェスチャーでそれを制止した。まるで「疲れないようにしなさい、必要な時には知らせますよ」と言いたいかのようであった。それで、私は三時間のリハーサル間、何回も一分間だけよく声を出して歌えばよい、ということになった。カラヤンの信頼を得ることが、芸術家にとっていかに重要であるか、ということは、この喜びを獲得した者が、本当に推量することができる。他の指揮者と仕事をする際には、カラヤンとの場合よりも気楽に進行するということを、私は全く否定しようと思わない。しかし、カラヤンと音楽を演奏することは、オペラという芸術ジャンルの、新しい視野と次元を開くのである。後にどこかほかの所でさえ通用するものを、経験することができる。私もそうしてきた。私のように、何年もの間規則正しくカラヤンと契約されると、そのことは当然かなりの評価を得る。私に目をかけないオペラ・ファンでさえ、いつか、「カラヤンのような人が、そんなにしょっちゅうカレーラスと共演するのであれば、このテノール歌手は、何か特別なものを持っているに違いない」と、言うに違いなかった。しかし、いずれにせよ、音楽性と、職業に対するプロの規律なのだ。

 カラヤンは、私に大きな課題を与えた。それは、一九七六年からたて続けに来た。まず復活祭音楽祭での《レクィエム》、同じ年の夏の《ドン・カルロ》の連続公演。ヴェルディのオペラは、彼のもとで、一九七七年、一九七八年、一九八六年(復活祭)にはザルツブルクで、一九七九年、一九八○年にはウィーンで、歌った。

 カラヤンとの次の企画は、私の経歴の頂点となることになった。ウィーン国立歌劇場での《ラ・ポエーム》だった。

 周知の通り、カラヤンとフランコ・ゼッフィレルリは、六十年代の始めに、ミラノのスカラ座での《ラ・ポエーム》の共同公演において、オペラ史を作った。私は当時、新聞でその出来事に注目した。まず、ジュゼッペ・ディ・ステーファノをめぐる騒動。スカラ座の管理部は、新作のテノール・パートを、彼に約束していた。しかし、カラヤンは別の人物を決め、若いジャンニ・ライモンディと契約したのだった。初演の際、両テノール歌手のファンたちは、互いに、めったに体験しないほど大声でわめきあった。しかし、結局初演は、スカラ座がそれまでに経験した最大の成功となった。それから、その公演は、カラヤンが当時監督をしていたウィーン国立歌劇場へ移った。この時もミレルラ・フレーニとジャンニ・ライモンディが歌った。その後、この公演は映画になり、私も学生の頃、映画館でこの映画を何度見たかわからない。

 今、つまり十四年後に、カラヤンは私をロドルフォに選んだ。ウィーン国立歌劇場を十三年間離れていた後、マエストロのカムバックは、一九七七年五月に計画された。ウィーンの観客にとって、オペラが本質的に何を意味するのか、私は当時初めて経験した。おそらくミラノを除いて、このような熱狂は決してないほどのものだった。

 カラヤンは、すばらしいオペラのスペクタクルをまき散らし、その町に本当にオペラの運命の時を与えた。《イル・トロヴァトーレ》、《ラ・ボエーム》、《フィガロの結婚》を、彼は三回ずつ指揮した。人々は、座席券と立ち見席券のために、数夜にわたって行列した。「オペラのウィーン」は、この話題でもちきりだった。総じて、カラヤン・フィーバーだった。

 カラヤンは、《イル・トロヴァトーレ》で始めた。パヴァロッティがマンリーコだった。私は二年前、サン・フランシスコでルチアーノと親しくなっていた。そこでよく一緒だった。彼がすばらしい歌手であることは言うまでもないが、私は、この時アメリカで、彼にはなおほかの才能があることを確かめた。ポーカーだった。実に信じられないことに、私は彼と幾晩も徹夜でポーカーをした。ハイメ・アラガルを補欠として、二つの「チーム」が勝負をした。ルチアーノとカティア・リッチャレッリの「ルイザ・ミラー」チームと、レナータ・スコットと私の「蝶々夫人」チームである。ところで、レナータと私は、一度、東京−ローマ間の飛行機の中でずっとポーカーをし通したことがある。ホンコンでの途中休止の際すでに、彼女はその収益で真珠の指環を買うことができた。

 ウィーンの初演の前、わがルチアーノは私に、観客の反応をあらかじめ感じるために、それをよく見ておくべきだと言った。そうするのは、言うほど簡単ではなかった。入場券を手に入れるのが、私には不可能だったからである。そこで、ルチアーノは私に、「彼の」わり当てから一枚をくれた。それで私は、ずっと高い所、後ろの方のパルコニー席で、イタリアのパヴァロッティ・ファンに囲まれて、長い中断の後の、カラヤンのウィーン初公演を体験した。

 マエストロがオーケストラ・ボックスの上を歩いて来た時、私のまだ聞いたことのないような歓声が、歌劇場いっぱいに響いた。何分問も歓呼が続き、その瞬間には、上演開始のことを考えることはできなかった。ほとんど無愛想に、カラヤンは、突然後ろを向いて、オーケストラ・ポーイに、赤いバラの大きな花束を譜面台から取るように示した。そして、喧騒のさ中で、腕を高く上げた。すぐに静まり返った。演奏が始まった。

 五日後、一九七七年五月十三日に、私は再びこの儀式を経験した。ただ今度はバルコニーに坐っていたのではなく、自ら舞台に立っていた。幕が上がる前の最後の数分間は、ほとんど口で言えないほどの緊張であった。心臓が激しく鼓動した。私は、ミレルラも、多くの大きな経験にもかかわらず、そしてカラヤンとの長年の経験にもかかわらず、あまり変わらなかっただろうと思う。有名なウィーンの批評家は、翌日の彼の批評の文章が、どんなに的を得ていたか、全く知らなかっただろう。書かれていたことは、「二人の舞台の人間と、指揮者は、胸をどきどきさせていた。そのことも、完全にずばらしいプッチーニ公演の要素である。この公演は完全だった。」

 私は、この公演の前か後に、いつかどこかで自分がロドルフォをもっとよく歌ったことがあったかどうか、わからない。ただ言えることは、この公演の雰囲気全体が、おそらく歌手の経歴の中で全くまれにしか経験できないもので、また、本質的にウィーンにおいてのみ可能なものだった、ということである。

 カラヤンのもとでの《ラ・ポエーム》の三回めの公演は、同時に彼の、ウィーンでの客演の最後のものでもあった。幕が下りた時、観客は明らかに、それを認めようとしなかった。歓声は、約四十五分間続いた。それはとにかく《ラ・ボエーム》の第三幕よりも長かった。当時のオーストリアの国家元首さえ、ほとんど最後まで、辛抱強く桟敷席で待ち続けた。熱狂した観客に、突然鉄の幕が下ろされることに絶対承知しなかった。長い喝采によって、彼は再びむりやり引っぱり上げられた。歌手たちは、舞台ばなでまたおじぎをするために、楽屋から呼び出されねばならなかった。実にすばらしかった。翌年、《ラ・ボエーム》のために私たちが再び戻って来た時は、すべてが全然違っていた。

 しかし、この頃カラヤンは、別の企画を長いこと暖めていた。ザルツブルク音楽祭での《アイーダ》である。彼は、私にラダメスを申し出た。それが知れ渡るとすぐに、世間が私に吹き込んだ。役が早く来すぎた、私の声にはそれは危険だろう、等々。

 私は、ラダメスを歌う決心をするには、気が重かったことを告白する。それがなんとなく冒険であることは、私にとってはっきりしていた。しかし、カラヤンの指揮で、それを敢えてしたかったのである。当時彼は、その役について私と詳細に論議した。はっきりさせたことは、ラダメスとして、私には声自慢ではなく、多感な恋人を望もうとしている、ということであった。同時に私は、よく考えてみた。《仮面舞踏会》で愛の二重唱を歌えるテノール歌手が、どうしてナイルの場面を克服できないことがあろうか。たしかに、アリア〈清きアイーダ〉は、とても難しく、残念なことにオペラのごく初めから来る。しかし、とりわけ、それは叙情的なアリアである。たとえば最後の幕全部のように、おそらく作品全体の中で、ラダメスに対しては非常に多くの叙情的な場所があるのと同様に。他方で審判の場面では、その高音位と厚いオーケストレーションのために、もちろん危険がある。

 いずれにせよ、私は承諾した。ザルツブルクでの初演の、かろうじて三ヵ月前に、私たちはウィーンのレコード・スタジオで《アイーダ》を録音した(最初のアンサンブル・リハーサルは、ウィーン近郊のマウエルバッハにあるカラヤンの自宅で行なわれた)。すべて順調にいって、私はよい気分になった。

 しかし、レコード・スタジオと舞台とではなんという違いなのだろう。

 初演の日が近づくにつれて、私の心理的負担はますます強くなった。いらいらしてきた。しかし、カラヤンはいつもその場にいた。私の自宅でさえ、彼はつねに至る所にいるようにみえた。私は当時最終的に、ザルツブルク近宅のアニフにある、かつての彼の家に住んでいた。新しい所有者から借りたのである。

 そして、初演の日に、私はマエストロのすばらしい手ほどきの力を知った。この、一九七九年七月二十六日の正午頃、私は、もう家にいたたまれなかった。あと二、三時間で音楽祭大劇場の幕が上がる。この《アイーダ》を皆が待っている、そう、待ち構えているのだ。祝賀演奏会の観客、国際的な報道陣、ラジオでの生中継………。

 私は、森へと走った。気分転換をしたかった、ひとりになりたかった、連絡をとれないようにしたかった。この時、私の心の状態はなんとあわれだったことか。むしろこっけいな話がそれを説明する。私は、狭い道に沿って行った。突然、二台のオートバイが私に寄って来た。警察のパトロール隊だった。彼らが自分を逮捕しに来たのだったら、これで解決する、ということが私の頭に浮かんだ。殺人のためか何だか、そんなことは構わない。そうすれば、《アイーダ》はとりやめられるに違いない。「カラヤンのラダメス、ザルツブルクの牢獄に消える」という大見出しを想像して、私はおもしろがった。心の中で私は、この話を終わりまで演じ通した。しかし、数秒後には、この奇妙な夢は、二人の警官の姿の中に過ぎ去った。彼らは、もちろん私を逮捕しようとはせずに、オートバイのうなり声とともに、私のそばを通り過ぎて行ったのである。

 一時問後に帰宅した時、私の状態は格別よくなってはいなかった。しかし、まさにこの状態のときに、カラヤンが電話をかけてきた。今、私に起こっていることをすっかり思い描くことができる、そういう状態をわかっている、しかし、ただ彼を信頼すればよい、ということだった。私たちは、数分間話をした。彼は私を冷静にし、カづけた。それは本当に信じられないほどだった。カラヤンの電話は、私の心をあっというまに「快復」させてくれた。私は、今日なお、そのことで彼に限りなく感謝している。

《アイーダ》は、ふた夏、ザルツブルク音楽祭のプログラムに上った。公演は数年来たいてい予約があふれるものだった。申し立てによれば、音楽祭では《アイーダ》を全部で六回分売ることもできたほどだった。

 一九八一年、私は一時カラヤンのもとを離れていたが、ザルツブルクでは、ひと晩、歌曲のコンサートで歌った。一九八二年には、西ベルリンで《トスカ》の演奏会形式の公演があった。それは私たちが以前、レコーディングしたものだった。その後、さまざまな場所でヴェルディの《レクィエム》の公演がニ、三度あり、一九八五年には、復活祭の音楽祭で、アグネス・バルツァとの《カルメン》が続いた。この公演は、夏の音楽祭にひきつがれ、一九八六年には新たにプログラムに入った。

《カルメン》のレコーディングは、たしか一九八三年秋にもう行われていた。それが完了した時、カラヤンは私に言った。「私は七十四歳になって初めて、いつも夢見ていた通りに、ドン・ホセの役を聴くことができました」。これほど大きな勲章は、これまでに私に与えられたことはなかった。カラヤンが、いかに賞賛を控え、避けて通る習慣だったかを知っていたからである。

 一九八八年の夏、カラヤンの八十歳の誕生日の数ヵ月後に、私は、ザルツブルクの途中で、マエストロを訪ねた。それは、私にとって、病気に苦しんだ恐ろしい数ヵ月の後で本当に感動的な出会いとなった。

原書は1989年刊『José Carreras; Singen mit der Seele』(Kindler社)、日本語版の出版も同年です。
Booksには追加していません。

『巨匠カラヤン』

木之下晃の写真集です。
たいがいの写真は何処かで見たことがあるもの。
本番・リハーサル中のカラヤンのみならず、自宅や家族との写真、最後のページには墓の写真もあります。
巻末に簡単な年表があります。
序文は小澤征爾のものです。
1992年の発行。

「ベルリン・フィル・ディスコグラフィ」 - 『クラシックプレス』2000年夏号〜2001年春号

BPOのディスコグラフィーが掲載されているので買いました。

  1. 1913〜1945年
  2. 1945〜1965年
  3. 1966〜1980年
  4. 1981〜1999年

このディスコグラフィーでは、カラヤンの戦前のSP録音について、DGの録音年月日のデータが間違っていると明示的に書いた上で、別の日付を載せているものがあります。
そのうちこちらに合わせて当サイトのディスコグラフィーも日付を書き換えることになると思います。

非正規契約と思われるライヴ盤についても掲載されていますが、CD-R盤の記述はありません。

こちらはOthersに追加しました。

『Karajan Eine Hommage an den großen Dirigenten』

『マエストロ、マエストロ!』を元にした書籍です。
ドイツ語で書かれたカラヤンの略歴のところどころに写真が挿入されています。
巻末には一部非正規盤も含んだディスコグラフィー、ほとんど役に立たない穴だらけのフィルモグラフィーの他、珍しい関連文書の一覧もあります。
隣接権の切れたSP時代の録音からいくつかが収録されたCDがついています。
しっかりした装幀で、持っていて満足できる一冊です。
2000年刊。

この書籍は久保さんに教えていただき、Concolorさんに人柱になっていただいたのですが、私の手許に届いたのは、注文後実に4ヶ月近く経ってからでした。

Karajan - Eine Hommage an den grossen Dirigenten

蛇足

極まれに勘違いされている方がいらっしゃるようなので、一言申し上げておきます。
仏教でいうところ「13回忌」というのは、12年目の命日を指します。
今日は13年目ですので、13回忌ではありません。

▲UP7月14日

初Super Audio Compact Disc

カラヤン音源初のSACD化は、70年代のベートーヴェン:交響曲第9番《合唱》になるようです。

ベートーヴェン - Sym.9:Tomowa-sintow,Baltsa,Schreier,Van Dam,Karajan/Bpo('76) Hybrid

意外なところを選んできますね。
私は再度アルプス交響曲とか80年代の《英雄の生涯》とかではないかと予想していました。

SONY発売予定DVD一覧

先日「ヘルベルト・フォン・カラヤン 不滅の名演 34タイトル」発売予定一覧です。

以上、合計33タイトル。
ドヴォルザークの9番がどこかに入るはず。

結局、LDで発売されたのと同じ面子です。
ミサ・ソレムニスも、大阪ライヴも、序曲集も予定にありません。

この予定にはDVDとしての再発売も入っています。
以下は、DVDの既発売作品です。

以上、Concolorさんよりお知らせいただいた情報です。
いつもありがとうございます。

追記
ドヴォルザークの9番を9月発売に追加しました。

▲UP7月9日

ショルティの《影のない女》

カラヤンは生涯R・シュトラウスの管弦楽曲やオペラ作品を得意としておきながら、《影のない女》の正式な録音はなく、ウィーン国立歌劇場監督の最後期のライヴ音源が2種残されているだけです。

これとは関係ないのですが、ザルツブルグ音楽祭の92年公演のショルティ指揮による《影のない女》がDVD化され、HMVに紹介記事が出ています。

R.シュトラウス : 楽劇 《影の無い女》 全曲 ショルティ 指揮 ウィーン・フィル

この解説にある記述から一部分を以下に引用します。

 当DVDは、ショルティがウィーン・フィルを核につくりあげたみごとな音響と、ゲッツ・フリードリヒの象徴的な美しさにあふれた演出が結びついた名舞台を収録したもので、ザルツブルク音楽祭ならではの豪華なキャスティングが魅力です。
 この公演、元々はカラヤンが指揮する予定だったものですが、1989年のザルツブルク復活祭音楽祭にショルティがベルリン・フィルを指揮しに訪れた際、カラヤン指揮する《トスカ》の終演後に楽屋を訪問したショルティに対して、カラヤン自身が出演依頼をしたというもの。
 おそらく自らの死を予感していたのでしょう。それから数ヵ月後の7月16日にカラヤンは亡くなりますが、ショルティによる公演は、3年後に予定通りおこなわれました。

こんな話、初めて聞きました。
カラヤンは自身が創設した復活祭音楽祭を「私と一緒に墓に埋めて欲しい」とまで言ったそうですが、復活祭と比べれば興行主としての立場も軽かった夏の音楽祭に関しては、現実問題として処理していたのでしょうか。
カラヤンは音楽祭のオペラを3年前から計画し始めるそうですから、当時すでに歌い手たちとの交渉も済んでいたのかも知れません。
本当は自分が振りたいがどうもかないそうもない、とカラヤンが考えたのだとしたら、復活祭音楽祭に対する情熱ほどではないにしても、それでも音楽祭の行方を気遣っていたというのは、ちょっと悲しい話ではありますね。

もうすぐ命日です。

▲UP7月7日

SONYのDVD発売情報ページ

ここのところ発売情報の相次いでいたSONYのDVDについて、本家のサイトで紹介ページがアップされています。

Herbert Von Karajan | Artist Information

この紹介ページは従来通りの属性型ですが、SONY MUSICはクラシック部門用にhttp://www.sonyclassical.jp/という汎用ドメインを取得したようで、従来のデザインを引き継いだトップ・ページが上がっています。
この発売情報を知らせてきたメールには「ヘルベルト・フォン・カラヤンがソニー・クラシカルに残した全ての画源を、既発のもののリイシューも含めて完全にDVD化。名演が色鮮やかに甦ります。」とありますが、トップ・ページの画像には、「ヘルベルト・フォン・カラヤン 不滅の名演 34タイトル DVDで再発!!」とあり、LDでアナウンスがありながら、結局発売されなかったいくつかが本当にDVD化されるのか、半信半疑ではあります。

なおリンク先にあるように、7月10日発売予定だったドヴォルザーク:交響曲第8番は発売延期となりました。
いまのところ新しい予定日はアナウンスされていません。

カラヤン・コレクション Vol.1

BSの有料放送WOWOWで、カラヤンの映像作品が放送されます。

カラヤン・コレクション Vol.1 - MUSIC TOP

最初の放送は14日(日)午前8:00からの《英雄の生涯》《ドン・キホーテ》
第1弾とあることから、これからも放送があるのでしょう。

これはあむろさんからお寄せいただいた情報です。
どうもありがとうございます。

▲UP7月4日

アーク・カラヤン広場

友人がかなり高性能のデジタル・カメラを購入し、しかも気安く貸してくれたので、永く考えていたカラヤン広場の撮影をしてきました。
以下、散策です。
画像をモリモリ使ったためひどく重たくなってしまいましたが、お許しを。


地下鉄銀座線溜池山王駅の13番出口から徒歩1分のところに、アーク・ヒルズという、商店や食べもの屋さんの集合体建物があります。
目指すカラヤン広場はこのなか。

良い感じで曇ってますが、雨は降っていませんでした。
私の職場から歩いて2分なのですが、いままで一度も広場には行ったことがありません(w。


矢印が示すとおり、広場はただの奥ではなく、上の奥にあります。
正面のエスカレータ(撮影するのを忘れた)を登ると、入口です。
とても「広場」の入口とは思えない人工的な雰囲気。
良いタイミングで掃除のお兄さんがいたので、写ってます(w。

回転ドアのようなかたちの入口を抜けたところが、もうカラヤン広場なのでしょうか?
何だか全然勢いがありません。
右手に半屋外のフランチャイズ喫茶店あり。

勢いの感じられない空間を抜けると、広々としたところに出ます。
どう考えてもここからが広場なのでしょう。
右奥はTV朝日、左奥はサントリー・ホールの入口です。
実はサントリー・ホールの正確な場所を知ったのも初めてでした(w。

広い空間の入口すぐ左には、ARK HILLSと書かれた壁があり、そこにヘルベルト・フォン・カラヤン財団より寄贈されたプレートがはめ込まれています。
この写真、光沢のある壁に撮影者(私)が写り込んでいたため、加工しました。
この広場でHerbet von Karajanという名前を見ることが出来るのは、このプレートだけです。
TV朝日の方にある階段の時計塔の土台にも同じプレートが貼りつけられていました。
壁の右側は噴水になっています。
ってかいま気づいたけど、パノラマで撮れば良かった……

まあ、予想はしていましたが、これっきりで終わりです(w。
別にカラヤンを偲べる何かがあるわけではありません。
せめてプレートのキー・ホルダーでも売っていれば買うのですが。

カラヤン広場の沿革については、サントリー・ホールのページ森ビルのページを参考にしてください。

以下に先に使用した画像のいくつかを見やすい大きなサイズで保存してあります。
だいたい1枚150kb前後です。

おまけ(w

▲UP7月2日

SONYのDVD9月発売分

HMVにてSONYからの日本盤DVDの9月4日発売分がアナウンスされてます。

ブルックナーの8番
某氏は躍り上がっているでしょうか?(w

カラヤンの映像作品のなかであるいはもっとも優れているかも知れない、と私には思える、BPO創立100周年記念の《英雄》が再発売されるのが嬉しいところです。

この発売情報はSさん(名前をお出して良いかわからないのでイニシャル)に教えていただきました。
どうもありがとうございます。

追記:
忘れていました。
FilmographyにDVD番号を追加しました。
よく見ると、また収録時間によって値段が違うのですね。
全く何を考えていやがるんだか……


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